第50話:残り105日

 疲れると注意力も集中力も散漫になる。仕事でミスをした自覚があるので、明日関係者が出社したら状況説明と謝罪、改善方法を伝えねばならない。少々気が重い。

 体調を崩して一日休んだら、「体力的にきついなら違う仕事を割り当てる」と言われた。一見ありがたい言葉にも思えるがそんなことはない。思考の方向性が違うだろ、私を外すより先に我々チームに人を一人増やせよ、と思う。

 私ももう一人の担当者も常々、あと一人担当者がいれば、代休を消化しながら休みを挟みながら、仕事を回せるのだ。だいたい、肉体労働で残業60時間やってふらふらになってる人間に「体力的にきついなら」って言うのどうなの。それで配慮したつもりか。自分の過去を振り返り「昔は夜11時まで残って働くこともあった」って言ってたけど、「だからその程度の残業時間でくたくたになるのは甘い」みたいに考えてるんなら、早くマネジメント職から降りてしまえ、と思う。人生すごろくで上がりになった人は、物を考えなくても生きていけていいですねと、心の中で毒付く。

 

 昔から、自分の好きなものが何かをよく忘れる癖がある。一番困るのは自己紹介で、突然嫌いな○○、好きな○○を要求された時だ。あれにいつもぱっと答えられる人は凄い。好き嫌いのメモ帳を作ってからは自己紹介のハードルが下がったけれど、それでもまだ難しい。

 友達に星野源のおすすめ曲を聞かれて答えた手前、勧めた曲を聞き直していた。「不思議」の序盤のハイハット、「彷徨う心で」から「そっと笑った」まで流れてるチチチチッチチチみたいな音のあれ、あれがすごく好きだなと思って演奏者を調べたら、米津玄師の「感電」でもドラムを叩いていた人で、また、その昔、アニメ「坂道のアポロン」のドラム演奏を担当していた人だと分かってびっくりした。どっちの演奏も好きだったからだ。

 坂道のアポロンに関しては当時、横浜の赤レンガ倉庫で、劇中の演奏を担当した人が出演するライブイベントがあって、高校の先輩と「一緒に行きましょう!」ときゃいきゃいしていた。結局、テスト期間と丸かぶりで行けなかったのだけれど、それなりに色々、演奏者について調べていたはずなのだ。なのに、今の今までその名前も記憶に残ってなかった。

 いくら好きなものを忘れっぽいからといって、ここまで忘れがちなのはなんなんだ。逆に、なんで周りの人達はそんなに、自分の好き嫌いを覚えていられるんだろうか。最近ようやく、好きなものを聞かれて「星野源」と答えられるようになってはきたけれど、忘れないようにするのはやっぱり大変だ。私が変なのか。周りが変なのか。

 

 セッションは楽しい。楽器から離れているから今はろくなもの出来ないだろうけれど、あの楽しい時間をまた感じたい。かるたも、チームを組んでまた団体戦をやりたい。ぽつぽつと、思い出せる範囲で自分の好きなものを数える度、東京に帰りたいと思う。

 一方で、なんかもう色々面倒だし、地元に帰ってひっそり暮らすか、とも思う。ああでも地元の弊社、中途採用者に聞いてる質問の内容がちょっと厄介だったんだよな。あれと同じこと聞かれるなら異動は難しいのかな。結婚相手もいないし、私の平穏な暮らしはいつやって来るんだろう。

 

 でもまあ、きっとこの辛いのは20代だけだよ、と自分に言い聞かせる。この10年で死神の飼い慣らし方を覚えた。攻略法を知った上でなら、絶望的な毎日を過ごしていくのも容易い。万が一この街で暮らし続けることになっても、退職後に好きな場所に引っ越して楽しく暮らして死ねばいい。

 子どもに恵まれず、それでも子どもを育てたいのなら、養子を迎えるのもありだ。血の繋がりとか家族とかよく言われるけれど、この国の家制度はそうやって成り立ってきたことを思えば、なんらびっくりするような選択でもない。結婚相手だって、必ずしも恋愛の延長線上になくたって構わない。うっかり忘れそうになるけれど、ロマンチックラブだけが家族組織の始め方ではないのだ。

 

 死神よ、そろそろ覚悟するといい。どっちに転んでも私の勝ちだ。