第82話:残り0日

 やりきった。20代駆け抜けた。楽しいことと辛いこと、僅差で辛いことのほうが多い10年だった。でも生き延びられた。災害や事件事故といった、意に反する死に方をすることもなかった。寒い冬の日に雨風を凌げる建物にいられて、威力は弱いけど暖房をつけて、布団の中でこうして文字を打てる幸せよ。空腹のあまりニベアクリームチーズに見えてくることも、天井の木目がこんがり焼いたベーコンに見えてくることもない。

 

 20歳の誕生日は大学1年のとき。東日本大震災の年に被災地から逃げるように入学した私は、既に出来上がっている人間関係に溶け込めず、サークルにも入らず、大学と寮の往復を繰り返していた。Facebookが流行っていた。中学の同級生と繋がって近況を知っては、何を学んでいるのか聞かれてもうまく答えられない自分がもどかしく、劣っているように思えた。震災を学問の対象として扱わなければならず、地元のことを極力考えたくなかった私には、それも辛かった。退学も考えたけれど、辞めたところでどうしたいかも分からなかった。逃げ場がなくて、大学へ向かう足取りは重くなり、後期はほとんどの単位を落とした。

 「逃げ場がないなら作るしかない」と腹を括ったのは年明けだった。既存サークルには馴染めないだろうからと、自分で新しいサークルを作った。他大学の同じ分野の人に話を聞いたり、自分の大学の人を対象にTwitterで募集をかけたりした。発足に必要なギリギリの人数で始まった組織は、今も細々と続いているそうだ。途中、トラブルを起こして空中分解しそうになったこともあったし、当時一緒に立ち上げた人たちとはもう一切連絡を取っていない。若干の寂しさが残るけれど、あの時の記憶や体験が自分を支えているのは間違いない。

 

 24歳から25歳になる年、逃げ恥が爆発的なヒットを飛ばした年の私は、台所で髪を洗い、どうやっても取れない部屋のカビ臭さにストレスを溜め、お湯を入れたペットボトルの湯たんぽで暖を取っていた。仕事を辞めて地元に帰ったはいいものの実家にいるのが辛く、一人暮らしをしていた。地方の非正規雇用は手取り13万とかがざらで、私もその一人だった。なんとか再び上京しようと就職活動の費用を貯め、何度も祈られ心を折られ、ようやく年末に希望の光が見えたのだった。私はすっかり忘れていたけれど、実は内定先の面接予定日に熱を出し、一度面接を延期してもらっている。あの時、採用担当だった元上司が延期を承諾してくれなかったら、私はどうなっていたか想像がつかない。

 

 29歳から30歳になる今年は、神様は20代の締めくくりに難易度を上げたとしか思えないくらい辛かった。無職の危機が再来し、婚約破棄まで乗っけられ、体調は悪いしメンタルは瀕死。運良く職にありつけたものの、知らない土地には馴染めないし友達も出来そうにない。文字にしたらこれだけなのに、もう今回ばかりは無理だ、生きていけない、と辛かった。

 

 それでもこうして布団の中で今、生き延びてよかったと思う。辛かったけれど、30代を生き抜くチュートリアルを充分過ぎるくらいやれた気がする。仕事に対する態度、恋愛の重み付け、自分がありたい姿の確立、全部出来た。これだけ厄災まみれの20代だったんだから、30代は神様だってバランスを取ってくれるはずだ。友人も恋人もいるに越したことはないけれど、まずは自分一人で自分を幸せに出来る範囲で頑張ろう。私はどうしたって私以外の人を生きられないのだから、この身体で、思い描く最大の幸せを掴むしかない。でも大丈夫、必ず手に入れるので無理することはない。私は私の好きな自分になるために無理せずやっていく。人生なんて欲張ってなんぼだ。

 

 ふと思い立って、20代の思い出が詰まっている街をいくつか歩いた。そのうちの一箇所にある百貨店でマニキュアを買った。背伸びではなく、自分にしっくりくるブランドのしっくりくる赤。ブランドを代表するのは香水だけど買ったのはそうじゃないところがいい。実用性を重視したところ、「私が新しいアイコンになってやる」くらいのメラメラした気持ちで選んだところ、Juice=Juiceの歌詞に出てくる「真っ赤で派手な爪」を思い出せるところ、ブランド創立者の人生に背筋を正してもらおうと思ったところ、全部ひっくるめて20代の締めくくりと30代の始まりにふさわしい、私らしい選択だと思っている。

 

 約半年間この日記を読んでくださった方々、本当にありがとうございました。コメントをくれた人、こっそり読んでくれていた人、どなたも私に安心をくれた大事な読者です。当初の予定通りこの日記は更新を終えますが、またネットの海で、もしくは現実で言葉を交わせるのを楽しみにしています。どうぞ、出来る範囲で健やかにお過ごしください。それでは。